頭良い奴は一生ビジネスの話だけしててほしいな〜
賢い奴とか、高学歴な奴とか、育ちがいい奴とか、
そういう奴らが小説の話とかしてると、とても辛くなる。
そんな経験ないですか。
僕はあったりなかったりします。
そんで、なんだかんだで今も「本は貧しい人のためにあって欲しい」と思い続けてるっぽいです。
僕自身、読書をしていた時期を思い返すと、それに没頭した一番の理由は「お金がなかったから」でした。
とてもコストパフォーマンスがいいんですよね、読書って。
漫画だと20分で読み終わってしまうけれど、文庫本は一冊で1時間以上時間を潰せるわけです。
しかも、ブックオフに行けば100円で買える。
一ヶ月で自由にできるお金が1000円もなかった小学生の時期、娯楽として成立させることができるのはそれくらいでした。
漫画だと、一冊で完結するものを探す方が面倒臭いし、5巻セットなんかを買うと古本でもたくさんのお金が飛ぶし、しかも大体の場合、その5冊を一日で読み終えてしまう。
中古であろうと、小学生の僕にとっては贅沢品に他ならなかったのです。
だから僕の家には漫画がほとんどありません。
(大学生になってから、その反動で漫画ばかり読むようになったけれど)
ここまでは金銭の貧しさの話でした。
もう一点、精神的な貧しさに就いても言及しておきます。
僕が読書に、というより物語に没頭していた理由は「現実がロクでもなかった」からです。
最近インターネットで見かけたこいつになんとなく親近感を抱いています。
何回でも言いたいけど、前に近所のブックオフでたぶんホームレス状態にあるであろうおじいさんが、小学校中学年くらい向けの100円の児童書を買ってて、店員さんに「俺はこんなのしか読めないけどさ、本が読みたいんだよ」と話しかけてたのを見たことがある。そういう人のために本はあるんだよ。
— でっぱりん🐏(OD) (@moguraotome) 2023年6月28日
読書は「貧しい人が一番安く行える現実逃避」だと思っています。
児童書なんかまさにそうです。
冒険があって、少しの困難があって、けれど最後には這い上がって幸せを手に入れます。
なんて素敵なおとぎ話!
とても素敵な、「現実とは程遠い」おはなしです。
けれど、現実があまりにもそんな物語と程遠いからこそ、僕には物語を読むことが必要でした。
こういう背景があるので、わざわざ豊かな人間が読書をすることにどこか抵抗があります。
お前らは高い参考書を買って、塾に行って、美味しいご飯を食べて、旅行に行って。
将来はいい大学に行って、いい会社に就いて、心優しい旦那さんや奥さんと結婚して、楽しく子育てをして。
そういう現実に投資すればいいじゃないか。
現実が満たされているのだから、わざわざフィクションに手を伸ばす必要なんてないじゃないか。
そう考えていました。
けれど、教育ママは「本を読むと賢くなる」と信じて我が子に物語を買い与えます。
大学生は「読書は最大の教養である」と信じて宮沢賢治を読みます。
「豊かさ」を表現する道具のために物語を使わないで〜〜〜〜!と思うのです。
そんなふうにして貧しい人間の聖域を犯すくらいなら、永遠にビジネス書と自己啓発本だけを読んでカタカナ言葉を喋っていて欲しいものです。
そういえばこれは余談ですが、
「でも、本を書いてるやつは大体、お前が忌み嫌っているその『恵まれた人間』なんじゃないの?本の内容も、そういったものがあるんじゃないの?」という指摘をされました。
確かに、とその時は頷いたけれど、今考えてみると少し違うような気します。
読書って、現実逃避で、存在しない理想を追いかけている側面があると思っています。
例えるならば、下層の貧民が、上層の貴族の暮らしに憧れるような、そういう感覚に近いものだと思っています。
そうであれば、貴族そのものは憎みつつも、貴族の暮らしには憧れますよね。僕らにとって理想の人生を記した物語とその作者を憎むことはあまりないんですよね。
そんな感じだと思います。
(とてもわかりづらい!)
閑話休題。
ガキの頃、大人たちにしきりに「本を大切にしろ」という話をされました。角が折れたりシミがついたりすると、買った時の美しさが損なわれてしまうだろう、と言われました。
買ったばかりの本が美しいだなんて、僕は考えたことがありませんでした。普段買う100円の古本の状態なんて、たかが知れたものだからです。折れてるし曲がってるし、時にはページが破れている。
「本を大切にしろ」というのは、その時点で僕の信奉していた「読書」のカタチから離れたものだったのです。
そんで、もう少し歳を取って、中学生くらいになった時に、インターネットをきっかけにして、読書が好きな同年代の男の子と知り合いになりました。同い年なのに色々なものを読んでいるそいつのことを、僕はけっこう尊敬していました。
けれどその子は「本は大切に扱うべきである」という考え方を持っていました。口先だけじゃなく行動にも表れていました。
当時の僕はスレていました。だから「こいつも金持ちかぁ」となんとなくつまらなく思ってました。
そしたら後からわかったんですけど、そいつは別にお金持ちではなかったらしく、それどころか古本を買う金もなかったらしいです。
お金が1円もない人間はどうするのか、という話になるんですけど、1円もかからない趣味を探した結果、図書館で本を借りるんです。
借り物なのだから、そして次に誰かが読むのだから、少しでも綺麗な形で返すのがいいのではないか、という話を彼はしていました。
その話をされた時、僕はすごく辛くなりました。
こいつは俺よりもさらに貧しいのに、俺よりもずっと優しい!
一番苦しいのは「自分だけがどん底の不幸にいる」と感じた時ではなく、「同じくらいの不幸を抱えている人たちの中で、自分だけがダメだった」と気付いた時です。
境遇のせいにできませんからね。
だからなんだって話なんですけど。
そんで、もう少し歳を取って、僕は自分の家がこれっぽっちも貧しくないことにハッキリと気がついてしまいました。
兄は東京の私立大学に6年間通っていました。
僕も浪人が許されて、さいきん大学院に行くことも許されてしまいました。
小学生時代にお金があたえられなかったのは、単なる親の教育方針の問題でした。
今まで抱いていた劣等感や、本に求めていた救い。あれはなんだったのだろう、と思いました。
一番苦しいのは「自分だけがどん底の不幸にいる」時ではなく、「同じくらいの不幸を抱えている人たちの中で、自分だけがダメだった」と気付いた時でもなく、「そもそも自分はそれほど不幸ではなかったのに、勝手に不幸なふりをしている」と気付いた時です。
もう悲劇のヒロインぶることができませんからね。
だからなんだって話なんですけど。
そんなこんなで、もう自分が恵まれた方の人間なんだと完全に自覚してから、僕はあの頃のように純粋な気持ちで物語を崇拝できなくなってしまいました。かつて忌み嫌った「物語にふさわしくない」側の人間としてしか物語に触れることができなくなってしまいました。それはとても悲しいことですが、仕方のないことです。
なりたくないのに大人になってしまったと気付いた時の感情によく似ています。
けれどいつか、いつか再び何も無くなってしまったら、もう一度あの頃のように物語を読めるのかなあ、とぼんやり思っています。
しかし、自分からわざと貧しくなるのでは意味がない。造られた貧しさほど虚しいものはありません。そんな偽物では、あの頃のように「苦しい」とも「救われたい」とも思えないでしょう。
このまま結構頑張って、色々なことをして、それでも失敗して、全部無くしちゃって、全財産が1000円くらいになって、他にできることがなくなって、仕方なく立ち寄ったブックオフで見つけた本に心を奪われながら消えていきたい。
マッチ売りの少女のような最期を送りたい。
そんな日をどこかで待ち望んでいます。
なので、それまでは裕福な人間として、カタカナ言葉をたくさん使って、ビジネスの話ばかりしていようと思います。
そういうマインドセットでたくさんのエクスペリエンスを手に入れよう!
※フィクションです。